坂東英二のゆでたまご好きの理由は?新幹線9個の伝説と壮絶な戦争体験

板東英二さん(※「坂東英二」と表記されることも多いですが、正しくは「板東」)といえば、真っ先に「ゆでたまご」を連想する方がほとんどではないでしょうか。

バラエティ番組でのモノマネでも、必ずゆで卵を手にしているのがお約束。でも、なぜそこまでゆでたまごに執着していたのか、その本当の理由まで知っている方は意外と少ないかもしれません。

実はそこには、幼少期の壮絶な戦争体験が深く関わっていました。1日に何個食べていたのか、心に残る名言や知られざるエピソードも含めて、たっぷりお届けしますね。

坂東英二のゆでたまご好きは壮絶な戦争体験がきっかけ

  • 板東英二さんは毎日3〜5個のゆで卵を食べ、新幹線で最高9個食べた伝説がある
  • ゆでたまご好きの原点は、満州からの引き揚げ時に飢えをしのぐため生卵を丸飲みした壮絶な体験
  • 火を使えず生卵しか食べられなかったからこそ「温かいゆで卵」が特別な存在になった
  • 亡き母への感謝を込めた「ゆで卵を好きなだけ食べてるよ」という名言は多くの人の涙を誘った
  • 2013年の脱税騒動後にテレビから姿を消し、2020年以降は消息不明の状態が続いている
名前 板東英二(ばんどう えいじ)
生年月日 1940年4月5日
出身地 満州国(現・中国東北部)生まれ、徳島県育ち
職業 元プロ野球選手(中日ドラゴンズ)・元タレント・野球解説者
代表的な実績 甲子園通算83奪三振(大会記録)・1試合25奪三振

板東英二さんがここまでゆでたまごを愛するようになった背景には、幼少期に満州で経験した想像を絶する飢えの記憶がありました。その壮絶な過去を時系列で振り返っていきます。

満州での過酷な幼少期

1932年〜1945年の間、日本はすべての都道府県から農業開拓移民として約27万人を現在の中国東北部(満州)へ送り出していました。昭和の大恐慌対策や過剰人口の解消、軍事政策といった国策として、多くの日本人が海を渡ったのです。

板東さんは、まさにその激動の時代である1940年に満州で生まれました。当時の満州は日本人にとって「理想郷」として喧伝されていたものの、実際には過酷な環境が待ち受けていました。

そして1945年、板東さんが5歳のときに日本が敗戦国となり、在満日本人は帰国を余儀なくされます。ここから板東さん一家の、命がけの引き揚げが始まりました。

命がけの引き揚げと母の決意

敗戦の混乱の中、満州に残された日本人たちを待っていたのは地獄のような日々でした。ソ連軍の侵攻や現地の暴徒による襲撃、飢えや病気、集団自決などで約20万人もの方が命を落としたと言われています。

極限状態の中、自分の子供を連れて帰ることができず、泣く泣く現地に置き去りにせざるを得なかったケースも数多くありました。現地の人々が子供を引き取りに来て、我が子の命を救うためにやむなく手放した親御さんもいたそうです。

実は板東さんも置き去りにされそうになった一人でした。しかし泣きもせず、親が乗っている汽車を必死に走って追いかけたそうです。

その小さな背中を見た母親が「この子はきっと大物になる」と確信し、何があっても連れて帰ることを決意しました。

兄弟と末っ子の板東さんを背負いながら、道なき山を越え、荒れ果てた平原を進み、出発から1年半という歳月をかけてようやく日本に帰国。母親の愛と覚悟がなければ、板東さんの命はなかったかもしれません。

ゆで卵が「特別な存在」になった理由

その長く過酷な引き揚げの最中、幼い板東さんは空腹のあまり、夜中に現地の農家の鶏小屋へ忍び込んで卵を盗み、飢えをしのいでいました。

しかし見つかることを恐れて火を焚くことができず、生の卵のまま丸飲みするしかなかったのです。まだ5歳という幼さで、生き残るためにそこまでしなければならなかったという事実は、現代の私たちには想像もつきません。

だからこそ、当時食べたくても食べられなかった温かい「ゆで卵」に、板東さんは特別な思い入れを持つようになりました。ゆでるというひと手間がかけられること自体が、平和で豊かな暮らしの象徴だったのかもしれませんね。

母親はこの引き揚げ時の極貧生活を悔やみ、「ひもじい思いさせて、すまなかったねえ。ごめんね」が口癖になっていたそうです。

そのため、板東さんがプロ野球選手として成功し大金を稼げるようになっても、実家に帰ると「おこわとゆで卵」をご馳走として用意して迎えてくれたといいます。

母親にとっても息子にとっても、ゆで卵は貧しかった時代を乗り越えた証であり、家族の絆そのものだったのでしょう。

坂東英二のゆでたまご伝説と名言エピソード

壮絶な原体験を持つ板東さんのゆでたまご愛は、テレビの世界でも数々の伝説を生み出しました。驚きのエピソードから心に沁みる名言まで、一気に振り返っていきますね。

新幹線で最高9個!驚きのゆでたまご消費量

テレビで活躍されていた頃、板東さんは「毎日必ず3個〜5個はゆで卵を食べる」と公言するほどの大好物でした。

中でも語り草になっているのが、東京〜新大阪間の新幹線移動中のエピソードです。約2時間半の乗車時間で、なんと最高9個ものゆで卵を平らげたというから驚きですよね。

駅の売店や車内販売でゆで卵を見かけると、ついつい手が伸びてしまっていたそうです。あまりに食べ過ぎるため、地下鉄の車内で食べた際には周囲から注意されたこともあったとか。

バラエティー番組でも「毎日、ゆで卵が食べられることが贅沢です」としみじみ語る場面がたびたびありました。この言葉の重みは、板東さんの壮絶な過去を知ると全く違って聞こえてきますよね。

実は白身しか食べない?意外すぎるこだわり

世間では「板東英二=ゆでたまご」のイメージが圧倒的ですが、実はいくつか意外な事実があります。

関係者の証言によると、板東さんはゆで卵の白身しか食べていなかったという話があるんです。黄身は食べずに白身だけを好んでいたとのことで、コレステロールを気にしていたのかもしれません。

さらに驚くことに、板東さん自身が「一番好きな食べ物は赤飯」と明かしています。ゆでたまごへの執着は本物ですが、純粋な「好物ランキング」では赤飯に軍配が上がるようです。

とはいえ、ゆでたまごが板東さんにとって特別な存在であることに変わりはありません。好き嫌いとは別の、もっと深い感情がゆでたまごには込められているのでしょう。

YouTubeチャンネル「Boiled Egg」を開設

板東さんのゆでたまご愛は留まるところを知らず、2016年には当時76歳にしてYouTuberデビューを果たしました。(現在は更新停止中)

チャンネル名は「B.E.(Boiled Egg)チャンネル」。動画冒頭では「マイネーム イズ ボイルドエッグ」と片言の英語で自己紹介し、若者に混じって体当たり企画に挑戦していました。

デビュー動画は、当時流行していたダンス「本能寺の変」を完コピするという内容で、視聴回数は約49万回を記録。ただただ踊る動画で、その回はゆで卵とは全く関係ありませんでしたが、76歳とは思えない元気な姿が話題になりました。

他にも「ゆで卵に合うマヨネーズ検証」や「ゆで卵に合うシロップグランプリ」など、卵にからめた企画にも果敢に挑戦。シロップがゆで卵に合うのかという根本的な疑問はさておき、ゆでたまごを広めようとする情熱は本物でした。

「ゆで卵を好きなだけ食べてるよ」亡き母への名言

板東さんの言葉の中で最も心に響くのは、2011年のラジオ番組で亡き母に向けて語りかけた一言でしょう。

「母ちゃん、ありがとうね。英二は、なんとか食べてるよ。いまは、ゆで卵を好きなだけ食べてるよ」

かつて「ひもじい思いさせて、すまなかったねえ」と口癖のように謝っていた母親へ、息子が返した感謝の言葉です。飢えに苦しんだ幼少期を思えば、「好きなだけ食べられる」というシンプルな幸せがどれほど重いか伝わってきますよね。

戦争当時は「毎日食べるものがない」という日常が当たり前でした。今の日本でスーパーやコンビニに物が溢れている光景は、板東さんの世代にとっては奇跡のような風景なのかもしれません。

壮絶な原体験があるからこそ、ゆでたまごは板東さんにとって単なる好物を超えた、命をつないだ特別な存在なのです。

板東英二はゆでたまごだけでなくお金にも強い執着がある

板東さんの壮絶な幼少体験は、ゆでたまご愛だけでなく、お金に対する強烈な執着も生み出しました。その背景にも、同じ「貧しさ」という原点があります。

「人生は金」「貧乏は犯罪」の真意

テレビ番組『ライオンのごきげんよう』で「好きな言葉は?」と聞かれた板東さんは、迷わず「人生は金」と即答しました。司会の小堺一機さんからその理由を聞かれると、「貧乏は犯罪ですよ」とまで言い切っています。

かなり強い言葉ですよね。でも板東さんは続けてこう語りました。

「お金がないと困るし、人間というものは貧乏な状態になると卑屈になり、とんでもないことを考えるしやってしまう」

これは、生きるために卵を盗まざるを得なかった幼い日の自分自身を重ねての言葉だったのかもしれません。

板東さんが常人離れしたレベルでお金に執着するのは、骨身に染みた貧しい経験が原点にあるのでしょう。

プロ野球選手になった意外な理由と17億円の借金

板東さんは徳島商業高校時代に野球の才能が開花し、甲子園に出場しています。「1試合25奪三振」「大会通算83奪三振」という高校野球史に残る記録の保持者で、その実力は折り紙付きでした。

甲子園での功績が認められ中日ドラゴンズにスカウトされますが、実は板東さん自身は小学校の先生を目指していたそうです。ところが、父親が契約金目当てでプロ入りの話を勝手に進めてしまいました。

貧しい家計を支えるために不本意ながらプロの道へ進んだ板東さん。「野球が好きでプロになったわけではない」というのは驚きの事実です。

しかもその大切な契約金を、父親が株に突っ込んで全額失ってしまいました。

板東さんは怒るどころか「株で負けた分は株で取り返したる」と決意し、現役プロ野球選手でありながら副業を開始。サウナ、ナイトクラブ、牛乳販売店、日本料理店、マージャン荘と、手広く経営を行っていました。

中でも最も力を入れていたのが株投資でしたが、バブル崩壊とともに株価が大暴落し、一時は借金が17億円にまで膨らんでしまいます。

その後、持ち前のバイタリティーでタレント業や執筆業で稼ぎまくり、約10年かけて17億円を完済したというから驚きです。貧しい経験からくる「人生は金」「貧乏は犯罪」というハングリー精神で、板東さんは人生を戦い抜いてきました。

なお、板東さんは2013年に個人事務所の申告漏れが発覚し芸能活動を自粛。2020年を最後にテレビ出演がなくなり、個人事務所も2021年に閉鎖されています。

現在は消息不明の状態が続いており、実姉ですら居場所を把握していないと報じられています。波乱万丈の人生を歩んできた板東さんの安否を、多くのファンが気にかけている状況です。

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